松田 道雄 (中学校社会科教諭)

(4)どこまで経済を学べるか?
 
商店街を「分校」にする

 「だがしや楽校」は、経済を学ぶことができる場にもなります。屋台を出すわけですから、そこでお金を得ようと試みれば経済体験となります。
 大学院生活も終わり、駄菓子屋研究は修士論文としてまとめましたが、「だがしや楽校」の集いは、東北芸術工科大学の片桐先生のチュートリアルの学生さんたちが中心になって継続的に活動が続くことになりました。
 私のほうは、中学三年生を受け持ち、社会科の経済分野の学習で「だがしや楽校」を生かして実際に小さな経済活動を体験してみることで、教科書に書かれている経済学習のどこまでわかるのか、ということを試みてみようと思いました。
 この当時は、旧学習指導要領にもとづく教科書でしたが、現在の公民の教科書では、消費生活を中心とする身近な生活の経済活動から入り、市場経済のしくみを学んで、最後に財政や社会保障制度などの政府の仕事と、環境保全や情報など新たな産業創出の必要性について考えるという構成になっています。
 この学習カリキュラムに照らし合わせて考えると、自分で「小さな店」をひらいてみるというフリーマーケット体験は、保護者の事前アンケートなどからも経済学習の導入として好意的に受け取られましたが、私は、単なる入口学習ではなく、さらに踏み込んだことを考えていました。
 駄菓子屋という「子どもみせ」を卒業した中学生は、街のトレンディなショップ(女の子はファンシーなショップ)が「遊び場」になる年頃です。休みの日には友だちと街に行くことが「遊び」であるのは、生徒からの聞き取りからもわかりました。一般に、学校は生徒指導上の問題がおこることをきらって街での消費生活を悪者扱いしますが、若者になれば街が現実の社会になるのです。肯定的に考えれば、街やショッピングに関心を持つこの時期こそ、机上の学習だけではなく肌身で経済を学ぶ絶好のタイミングだと思いました。
 計画は、学校の授業で経済の基礎を学習しながら、グループで「小さな店」(フリーマーケット)を出す準備をします。そして、休日に商店街の広場で実際に「店」(屋台)を出してお金をかせぎ、その生の体験を活かして経済を自分のことばで語ることができるようにしようというものでした。
 学校と街(現実)の断絶に橋をかけ、街そのものを学び場にして、街での経済活動を学びの対象にしようと考えたのです。経済同友会は一九九五年に学校と社会を結ぶ「合校」という構想を提案しましたが、今回の私の試みは、商店街を経済体験の「分校」にする「合校」構想の実験としても意図しました。全国で中央商店街の空洞化が問題になっていることへの提案の意味もありました。
 この意図は、翌年、全国の商店街での教育活動に国が助成するという企画に結びつきました。このフリーマーケットの実践がたまたま全国紙(朝日新聞「商店街が私の教室」一九九八年六月一日)に載り、それを見た当時の文部省の方から「大変よい企画であるので、全国で実践を奨励する際の相談窓口になってくれるか」というお電話をいただいたのでした。
 商店街を学びの場にするということについては以前から関心を持ち、実践を試みたことがあります。かつては市がたってにぎわった商店街の店々のシャッターに連作の壁画を描き、その前に屋台を出して市を再生しようと試みたり、商店街のショウウインドウを「美術の教室」にして、学生たちが自由にディスプレイすることができる「窓」にしようという社会実験も行ったことがありました。若者たちが生きるフィールドである商店街で行う。これが頭にありました。

売る体験が消費者学習になる

 現代の若者たちは買う(消費する)という外からの行ないだけでしか経済社会に関わっていません。そして、いきなり社会人になり、生産して売るという内側の立場(生産者、労働者)に入ります。このギャップは大きいのではないでしょうか?
 かつては、子どもたちも経済の「内側」に参画する機会がたくさんありました。農家の子は農作業の手伝いをしながら農業生産のプロセスの一部に参画し、店屋の子は物作りや商売の手伝いをしながら商工業のプロセスの一部に参画することができたのです。さらに、近所には豆腐屋・自転車屋・畳屋など生活に必要なあらゆる職住一体型の店が並び、登下校や遊びの途中でも、働いているおじさんやおばさんから声をかけられながら、「経済の現場」を知ることができたのです。
 しかし、現代は複雑で目に見えない巨大な経済社会になってしまいました。お父さんは遠くの会社に勤めにいくサラリーマンとなり、子どもたちが肌で感じとれる身近で等身大の経済社会はほとんど消滅しています。我々大人でさえも、働いた給料は銀行口座に振り込まれ、買い物はカードででき、自分で働いたお金で物を買うという実感はどんどんなくなっています。働かない若者(ニート)の増加の背景には、子どもや若者の身のまわりから働く人の姿が見えなくなってしまったこともあるように思います。
 アメリカの学校では、子どもたちは自分たちの活動で必要なお金はバザーをひらいて自分たちで稼ぐという意識があるそうですが、同じ資本主義社会でも日本の学校では子どもたちがお金を稼ぐことはタブーになっています。それゆえ、「働くこと」と「お金」の結びつきを実感することはできません。
 「買う」と「売る」は表裏一体です。消費者教育というと買う立場からの視点ですが、買い手からだけでは経済活動の奥は見えません。ちゃんとした店では買い手が売り手になることはできませんが、これが「小さく簡単な店」(フリーマーケットの屋台)
であれば、だれもが気軽に売り手の苦労と工夫を味わうことができます。その結果、再び、売り手の戦略を踏まえて買い手の知恵を育むことができると思ったのです。
 それは、次のような体験的な学びから得られる知恵です。
 「お客さんを呼びこむには、どうしたらいいだろうか?」(売り手の悩み)
 これは、自由に店をのぞいて歩きまわる買い手にはあまり気づかないことですが、じっと店にいてお客さんが来るのを待っている売り手にとっては、深刻な悩みです。そこで、魅力的な商品づくりそのものに力を注いだり、チラシをつくったり、商品のよさや安さをPRする看板を立てたりと、あの手この手の努力をします。
 これこそ、経済活動の真髄であり、この一端をちょっとでも体験してみることによって、商品の質と価格の妥当性や誇大広告などがわかるのではないでしょうか。
 囲碁や将棋などの対戦勝負ごとでは、相手の立場で考えるとよく言われます。学校でも、相手の立場になってみて我が身を振り返ることは、道徳教育などいろいろな場面で行われますが、経済学習においても有効であるという手応えを感じました。
 さて、店(屋台)の外側から内側に立場を変えてみると、そこからさらに経済の奥の世界が見えてきます。売り手となってフリーマーケットの屋台を出した生徒たちは、お客が来ない時には、ごそごそと商品の数と売り上げて得たお金を数え直して、手帳に書きとめています。生徒たちは、ちゃんとその店の経営者となっているのです。
 そして、その時、商品の売り手となった生徒たちは、買い手からは見えなかったもう一人の入口の往来も体験したのです。それは、商品の仕入れ口です。
 小売店では、消費者が買う小売の対面とともに商品を卸問屋から仕入れる対面があります。商品の搬入は消費者から見えないところで行われ、卸値と小売値の差が小売店のもうけとなります。
 どこからいくらで仕入れるか、または自前で加工して商品を作るか、そして、いくらの値をつけるか。これこそが商売の営みであり、ここから、流通、生産者へと経済世界の奥地への視界が広がっていくのです。
 この時のフリーマーケット体験でも、かき氷をつくる機械を借りて、氷を仕入れて、かき氷屋を開いたグループがあります。また、自分でクッキーを焼いて販売し、原料の仕入れ値、家庭の台所の使用代、包装費、手間代など売り手側からの価格設定とお客さんが買ってくれる予想価格との不一致をどう調整するか議論になったグループもありました。まさに、生徒たちにとっては、経済世界の中を手探りで探索した経験となったようです。
 今回のフリーマーケット体験学習には、一冊の絵本がアイディアのもとネタになっていました。ルイズ・アームストロング(文)・ビル・バッソ(絵)/佐和隆光訳『レモンをお金にかえる法−“経済学入門”の巻』(河出書房新社、一九九一)という、レモネードの屋台つくりから経済原理を説明している絵本です。授業でも、通常の教科書とともにこの絵本も教材に用いて、これを参考に自分たちでも実際に体験し、体験に裏づけされた自分のことばで経済を語り、最後には、中学生が制作した「経済学入門の絵本」ができたらいいなと、思いました(残念ながら社会科の授業だけでは絵本まではできませんでしたが)。
 さて、このようにして土曜日に街の中で商売をして、得た現金を授業に持ってきました。グループの机の上に現金をジャラジャラと出して、「さて、このお金をどうする?」ということを考えることにしました。これを考えるためにわざわざ体験活動をしくんできたのです。
 まずは、売上金から材料代などの必要経費を差し引いて利益を出します。そして、残った利益をどうするかです。グループのメンバーで平等に分配する。仕事量に応じて分配する。では、その仕事量に応じた分配金額は、だれが決めるのか?仕事量を確認していくと、本当にグループのメンバーだけでいいのか?
 もし、家の人にも手伝ってもらったなら、それは下請けとして労働費を払わなければならないだろう。そもそも、フリーマーケットの場所の手配をしてくれた人(私つまり担当教師)には何もなくていいのだろうか?その場を利用したグループはみないくらかの「税」を支払う必要があるのではないだろうか?そして、次回以降も継続して店をひらくとすれば、それでも残った利益を次の「設備投資」にまわす必要もあるのではないだろうか?利益は「銀行」に預けておいたほうがいいのではないか?一方で、赤字になったグループはどうしたらいいだろうか?「社会保障」はあるのだろうか?
 このように考えを豊かにふくらませていくと、小さく身近な市場経済体験が大きく遠い国民経済を考える題材にならないだろうか、というのが今回の経済学習の実験でした。教科書では、身近な消費生活と市場経済、そして国民経済は分けられていますが、「小さなみせ」の体験から一点透視法的にどこまで経済をつかむことができて、何がつかめないかを明らかにしてみようという試みだったのです。

もう一つのキャリア教育

 今回の一連の経済体験学習では、フリーマーケット体験前後に保護者の意見もアンケート用紙に書いていただきました。保護者の方々の職種は、会社経営者、社員、公務員、医師、弁護士、教員、銀行員などと多種多様ですが、ほとんどが「子どもにフリーマーケット体験活動は必要である」という返答でした。
 生徒たちの「屋台」は、大人の店をまねる「おみせ屋さんごっこ」です。もともと子どもの遊びには、大人たちがしていることまねる「ごっこ遊び」がたくさんあります。「ごっこ遊び」には、大人社会へ入るための準備練習という意味もあります。この「〜ごっこ」による体験学習を、学校で「ごっこ学び」に定型化しようとしたのが戦後のジョン・デューイの経験主義教育だったと思います。
 しかし、「ごっこ学び」は「生きている社会」の中でしてこそ「生きた学び」となるのに、それを社会から隔絶した学校の中で行なったことが「這い回る経験主義」と呼ばれてしまった失敗のもとだったのではないでしょうか。
 今回のフリーマーケットも学校の教室の中でしてみたとしたら、どうでしょうか?まったく生き生きせずに時間の無駄使いのように思われるかもしれません。そんなことをする時間があったら、内容を知識として整然と講義伝達したほうが効率的だと言われることでしょう。学校には学校にふさわしい内容と方法があり、このような社会体験学習は、社会で行われてこそ学校では得られないことを得られるのだと思います。
 子どもたちの外遊び(群れ遊び)の喪失は、子どもたちの「ごっこ遊び」も失わせました。「ごっこ遊び」の喪失は、大人社会への参画を遊びながら学ぶ準備体験の機会を失ったのです。生徒たちにとっては、一五歳で生きた社会の場で「お店屋さんごっこ」に再チャレンジといった試みになりました。
 今回の授業の「屋台」は、一人ではなく五人・六人のグループで開きました。ふだん、学校の授業でもグループ学習は多くみられますが、たいてい教師から指示されたことをグループのメンバーが同じようにするだけで、メンバーで企画から話し合って仕事を分担して行う協働活動はなかなかありません。そのようなグループワークは、かつての群れ遊びのような自由な活動の中で育まれるのです。
 一方、社会人になると、様々な仕事の場面で小集団で職務を遂行する機会があります。グループによる店開きは、商品開発担当、製造担当、販売担当、会計担当、広報担当など自然に様々な役割分担をつくりながら、「小さな会社」づくりの原体験のような様相も持ちました。それは、社会化学習としてのソーシャル・グループワークの訓練にもなることがわかりました。
 私はと言えば、できるだけ効率的に教えて指導したいという気持ちと葛藤しながら、試行錯誤しながら自分でいろいろなことに気づいてもらいたいと思いました。冷蔵庫(リフレジャレイター)にはるメッセージカード(リーフレット)という意味で作った「リーフレーター」と名づけたメッセージカードを渡しながら、指示ではなく示唆だけを与えました。
 この体験学習を通して、生徒と保護者の感想で最も多かった学びは、経済的な知識以上に「人とのふれあい」という返答でした。生徒たちは、「商品」の売り買いの場で、「見ず知らずの小さい子や大人の人たちと会話をしてふれあったこと」に「こんなに夢中になれるとは思いませんでした」と述べ、小さいお客さんから「すごくかわいい笑顔で〈ありがとう〉と言われて、感動でした」と語り、「机に向かうことだけが勉強ではないという意味がわかった気がします」とふり返っているのです。
 そして、お母さんやお父さんも「自分の子どもが苦労して作ったクッキーを買ってくれた人が〈おいしかった〉と言ってくれたことばが、子どもにとって励みと喜びになったようでした」、「会話がなくて買い物ができてしまう世の中で、コミュニケーションの楽しさも味わったようです」、「家で商品づくりをしている娘と、とめどない会話の時を持てたのがうれしかった」といった感想を寄せてくれたのです。
 教科書の中身を教え込むことにやっきになっている学校教師には忘れてしまっていましたが、人と人の出会いと交流こそ人生の原点であったことをあらためて気づかせてくれたのです。これは異人(ストレンジャー)がいない学校の中では味わえなかったことでしょうし、かといって、今の子どもたちは学校外の生活でも人との出会いがない環境に生きているので、今回のように意図的に場を設ける必要があるということなのでしょう。
 異年齢の群れ遊びがなくなり、近所の「社会的おじさん」や「社会的おばさん」もいなくなり、子どもに声をかける「変なおじさん」は変質者と思われる社会というのは何とも非人間的な社会です。人との出会いによる様々な状況における「即興的な知」(機微)こそ、社会に生きる力ですが、現代の子どもたちにはそれを学ぶ環境がないのです。
 学校での机上の学びは、ペーパーテストに集約されるように、活字化できないことは学びの対象から外されます。これに対して、体験する生活の学びはことばや活字には表されないこともあります。民俗学の開祖である柳田國男のことばに「無形の養分」ということばがありますが、生活の学びとはまさにそのようなものです。二人のお母さんがアンケートに書いてくれた次の文章は、そのような「生きた学び」の必要性を述べています。

 「子どもたちが皆、生き生きとした表情をしているのが印象的でした。やらされているということではなく、自分たちでやっているという意識のもとで行動していたからではないでしょうか?そして様々な状況下で問題解決の方法をみんなで考え協力して行動している様子をみて感心しました。地域の方々との交流もとてもよいことだと思いました。」
 「売れない時の値引き、お客さんとの話し合いなど、その場に応じた思考、自身での決断など、大きく言えば、社会を生きてゆくために必要な力とは、こういう体験の中でこそ育つのではないかと感じました。我が子が頼もしく大人に見えました。子ども自身も大きな自信を持てたと思います。あたりまえのことなのですが、勉強(机の上の)だけではない、いろいろな生き方があるんだなと、いろいろに生きてゆけるのだと、世の中はおもしろいぞ、とそんなことを感じてくれていたように思います。」

 今回の学習は研究授業として公開もしましたが、それは学校教師の視点からの授業でした。学校教師の視点とは、多様な学びの芽もすべて教科書(学習指導要領)に書かれている記述に照らし合わせて集約することです。
 しかし、現実に生きることは、はたして教科書通りなのかという素朴な疑問が浮かびます。例えば、農家のお父さんや商店のお父さんは、手伝いをする我が子にどのようなことをどのように教えるでしょうか?そこには、作業の具体的な手順と注意、道具や商品の扱い方、お金の道徳や倫理、心構えなどの「無形の養分」があったのではないかと思います。
 残念ながら、「道徳は学校教育のあらゆる場面で」と学習指導要領にはあっても、受験のフィルターから道徳はふるい落とされて、現実生活のあらゆる場面で生きて働く道徳心がどれほど身についているかははなはだ疑問です。
 学校で理論的基礎を学ぶ学習と、実社会の場で実社会の人を相手に体験する学習の学社融合のプランによって、学校の学びはより実社会に近づいていくと思われます。 今回の物売り体験は、社会科の経済単元での試みでしたが、技術・家庭科や美術科や数学など他の教科とも融合していけば総合的な学習の様相が見えてきます。その先には、「遊びと学びの屋台」から「働きと学びの屋台」の姿があります。
 今回の保護者アンケートの中にも、遊び気分で物を売ってお金をもうけることだけにならないようにしてもらいたいという要望がありました。そして、農業高校などで行うような、自分たちで苦労して農産物を作る生産過程を経験してそれを売る体験、さらに職場体験のように実際に商店や企業の一員として働くことも必要ではないかという積極的な意見もいただきました。親は子どもたちに働く体験を垣間見ることの必要性を求めていることを感じたのです。
 この授業を行った一九九八年当時は、まだキャリア学習の必要性は声高に叫ばれていませんでしたが、ニート(無業者)やフリーターの若者が激増していることが社会問題として取り上げられている現在、義務教育の段階ですべての子どもたちが、このような経済体験の学習を積むことは不可欠のことではないかと思います。
 同じ「店」といっても、コンビニやファーストフードのようなフランチャイズの合理化された店が経済社会の中心となった今、パートでマニュアル通りに働く代替可能な単純労働者はますます増えていきます。求人募集のほとんどは、そのような非正社員の単純労働です。学校で教科書の授業以外に何も社会体験せずに社会に出て、待っているのはそのような経験が学びに蓄積されない労働なのです。
 学校の授業と連動して経済学習としても行うことができる素朴な子どもや若者の屋台は、ファーストフード的経済が合理化のふるいで落としていった「無形の養分」が溢れている「ボランタリー経済」(自発的な経済)の体験学習であり、経済体験の域を超えた自分づくりのキャリア教育の基礎演習になると思います。
 事前アンケートでは、経済学者の中谷巌先生(当時一橋大学、現多摩大学長)にもお尋ねしてご丁寧な返信をいただきました。なぜ中谷先生かと言うと、新聞で先生が大学生に経済を体験する授業をされているという記事を読み、中学生が体験したら何がわかるかをうかがいたかったからでした。先生の返信は、フリーマーケット体験からつかめることは「お客の関心を引くために私企業がいかに知恵をしぼっているかがわかる、自分自身と社会の関係に関心がいく」という内容でした。
 今回の授業では、生徒たちはたった一回から三回くらいの店ひらきでしたが、土曜日などを生かして継続的に何度か行えば、店の経営を体験していくことができます。多くの学校では、キャリア教育として一日から数日間の職場体験をしますが、大きな社会の一員になってみる職場体験とともに、「自分自身と社会の関係」づくりを育む屋台学習もまた必要であり、将来の人生においても、単純労働の中で自分を見失ってしまいがちになるフリーター人生を乗り越えて、主体的な働き方と生き方を見出すための養分になると思います(中谷先生は、現在多摩大学で「自己発見」の講義もされています)。
 この学習では、私自身も「遊びと学び」の「だがしや楽校」だけでなく、中学生には、「働きと学び」の校外楽校も必要だと感じました。そこで、「だがしや楽校」を行わない週休日に、大人の働きの現場にミニツアーをくんで出向いて参画体験するという企画も試みました。名づけて、「ワークツアーズ」。
 「だがしや楽校」が子どもとみんなが共生できる環境世界をつくるビオトープづくりであるとすれば、「ワークツアーズ」は大人社会の営みを探索するエコツアーとして考えたのです。
 学校で参加希望者を募って、卸売り市場を見学したり、りんご農園を訪問して仕事を手伝い、ついでにりんごに絵づけ(サンタン・アート)をさせてもらって後に収穫に行ったりしました。こちらの楽校では、「学びのツアーガイド」という役割が生まれます。
 中学校では、放課後と休日を拘束している部活動(多くはスポーツ部)を自由化すれば、生徒も教師もこれまでの学校的日常から開放されます。そして、地域社会の中で土曜日の活動を学校教師も市民もいっしょになって考えれば、多種多彩な活動を行うことができるはずです。それこそが、もう一つのキャリア教育の場になることができるのです。


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